Apple(アップル)共同創業者のスティーブ・ウォズニアックとは?経歴と名言まとめ【起業家】

スティーブ・ウォズニアック 起業家
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スティーブ・ウォズニアックとは

人物

本名:スティーヴン・ゲイリー・ウォズニアック

誕生日:1950年8月11日

国籍:アメリカ合衆国

生い立ち

アメリカの航空機メーカロッキードでエンジニアをしていた父とドイツ系スイス人の母のもとに生まれました。

父の影響もあり、6歳の時にはアマチュア無線の免許を取得し、自作の部品で無線機を作っていました。13歳の時には原始的なコンピュータを作り上げて科学コンクールで優勝しています。

幼いころはどちらかというと大人しい性格で、典型的な引っ込み思案で技術オタクの少年だったようです。

IQ200ととても高い知能を持っています。

高校時代に紙の上でコンピュータをデザインしていたそうです。

チップを買えなかったので紙にチップをどうやって配置するのかを書き、それを知り合いの会社の上層部が買ってくれ、スイッチやライトを組み立てていたそうです。

経歴

1973年 ヒューレット・パッカード 入社

1976年 アップルコンピュータ・カンパニー 共同創業

1980年 アップル IPO(株式公開)

1985年 アップル 退社

     カルフォルニア大学バークレー校 入学

     米国科学技術メダル 授与

1986年 電子工学 学位取得

スティーブ・ジョブズとの出会い

ウォズニアック氏は21歳の夏に友人ビル・フェルナンデスの紹介で当時16歳のスティーブ・ジョブズ氏と出会い、すぐに意気投合しました。

その年、二人は雑誌に掲載されていた記事を読んで、ブルーボックス(不正に無料で長距離電話をかけることを可能にする装置)の存在を知り、急いで図書館へ向かいAT&Tの技術資料を探し、それを元にウォズニアック氏がオリジナルのブルーボックスを作りました。

ウォズニアック氏は作った装置に「バークレー・ブルー」という名前をつけて、作ったことに満足していたそうです。

逆にジョブズ氏は、バークレー・ブルーでビジネスが出来るのではないかと考え、学生寮で1つ150ドルの価格で売り回り、最終的に約200台もの機械を売ることに成功しました。

ただ、その後ある商談の際に銃で脅されたことで、身の危険を感じバークレー・ブルーの販売をやめました。

この頃から、商品の販売はほとんどジョブズ氏が担当し、ウォズニアック氏がエンジニアの役割を担っていたそうです。

ジョブズ氏はのちに経営者としての才能を発揮している通り、お金に関してはかなりシビアな一面があります。一方、ウォズニアック氏は、あまり利益を追求しない現場主義の考え方だったため、時に二人は激しく対立することもあったようです。

しかし、基本的に正反対の人間だったため、いい意味で化学反応を起こし、お互いの長所を生かし、会社を成長させていくことになります。

ヒューレット・パッカード社 入社

大学休学後、ウォズニアック氏はヒューレット・パッカードというコンピュータ関連の会社に入社します。

そこで電気設計の仕事を与えられていたそうです。

パッカード社で働く傍ら、ジョブズからの依頼でアメリカのビデオ会社「アタリ」のビデオゲーム「ブレイクアウト」に必要な部品の数を半減させるという仕事を請け負いました。

もともと部品を減らすごとに100ドルの報酬を得るという、ジョブズ氏の仕事だったのですが、ジョブズ氏には回路基盤の設計に関する知識がほとんどなかったので、ウォズニアック氏が仕事を依頼されました。

ウォズニアック氏はブリック状のRAMを使用することで、部品の減少に成功し、ジョブズ氏が手にした報酬700ドルの半額、350ドルを手にします。

しかし、10年後に実はジョブズ氏はこの時5,000ドルものボーナスをもらっており、報酬のほとんどを独り占めしていたことが発覚したそうです。

ですが、ウォズニアック氏は「ジョブズが当時それだけのお金を必要としていたなら、もし私がその事実を知っていても、ジョブズにお金を渡しただろう」と語っています。

ウォズニアック氏はもともと金銭的な執着があまりない性格だったようです。

Apple I 製作

1975年当時、「Altair8800」というコンピュータ・キットが販売され、人気を博していました。

ウォズニアック氏は、「自分ならAltair8800より優れたマシンを作れるはずだ」と考え、マイクロコンピュータを独自で設計し、「Apple I」と名付けました。

Apple Iの完成品は「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」の会合に持ち込み賞賛を浴びました。

その後も改良を重ね、1976年にはApple Iの最終設計を完成させます。

ウォズニアック氏一人で、コンピュータのハードウェア・マザーボード・オペレーティングシステムを設計、組み立てました。

ウォズニアック氏はコンピュータの回路図を無料配布することを望みましたが、ジョブズがこのマシンを使ってビジネスを始めるべきだと主張し、マシンの商品化を目指すことになりました。

Apple社が出来上がるまで

ジョブズ氏とウォズニアック氏は、まずアタリとパッカード社にマシンの商品化を打診しましたが、どちらにも断られてしまいました。

そこで、二人で新事業を立ち上げることを決意しました。

事業を始めるために、ジョブズ氏は愛車のワーゲンバスを、ウォズニアック氏は、HP製のプログラム電卓を売り払い起業資金を捻出しました。

そして、二人はアタリで製図工として働いていたロナルド・ウェイン氏とともに「アップルコンピュータ・カンパニ」を創業しました。

Apple社設立

Apple I 最初の取引で約8,000ドルの利益を手にし、Apple I を大量に売ろうと考えました。

そこで、アタリ時代の上司に相談し、アメリカの投資家であるマイク・マークラ氏を紹介されます。マークラ氏がジョブズ氏の話に興味を持ち、アップルに加わることになり、個人資産から92,000ドルの投資をしました。

この投資でバンク・オブ・アメリカから信用貸付枠を勝ち取り、アップルコンピュータ・カンパニを法人化しました。

その後ナショナル・セミコンダクターからマイケル・スコット氏が引き抜かれ、アップル社の社長となりました。

スコット氏はアップルを組織的にするために、社員番号を入れた社員証を発行したそうですが、1番をジョブズ氏に与えればジョブズ氏の放漫が増すと考え、社員番号1はウォズニアック氏に与えられたそうです。

Apple社での開発

ウォズニアック氏は、その後Apple Iの再設計を開始し、改良を重ねながら一人でApple Ⅱを作りあげます。

Apple Ⅱはカラーグラッフィックで表示可能なベーシックプログラミング言語が内蔵された最初のパーソナルコンピュータです。

当時ビデオゲームでカラー表示させていたアタリの技術をヒントにして、ウォズニアック氏は、1ドルチップでNTSCシステムにカラーを搭載する方法を発明しました。

Apple Ⅱはそれまでのコンピュータと違い、最初のオールインワンタイプのコンピュータ製品でした。

Apple Ⅱは爆発的にヒットし、アップルは莫大な利益を得ます

しかし、1981年ウォズニアック氏は、自身が操縦していた軽飛行機が墜落してしまい、一命はとりとめましたが、5週間も記憶を失ってしまいます。

Apple社の由来

ウォズニアック氏によれば社名はジョブズ氏が提案してきたもので真意は不明だとしたうえで「彼は音楽を好んでいたのでアップル・レコードから思いついたのかもしれない」と述べましたが、ジョブズ氏によれば当時果実主義を実践していた自分がリンゴ園から帰ってきた直後に思いついたものであり言葉の響きとして「楽しげで、元気がよく、威圧的でない」と考え採用したと述べています。

ちなみにアップル社のマークはなぜリンゴをかじったような形をしているマークかというと、ニュートンがリンゴの木の下で引力の法則を発見したという故事に由来しています。

初めのデザインはリンゴの木に寄りかかって本を読んでいるニュートンを描いていました。

しかし、これでは堅苦しいとジョブズ氏は考え今のリンゴの形になっています。

また、リンゴがかじられたような形になっているのは、パソコンの容量を表す単位のバイト(byte)が英語の他の意味でかじる(bite)になり、これと引っかけたといわれています。

はじめはモノクロでしたが、Apple Ⅱのカラー出力を印象付けるために6色のレインボーカラーが追加されました。

しばらくはモノクロとレインボーカラーと両方が使われていました。

ジョブズ氏がCEOに復帰後に立体的にデザインされた単色ロゴを採用し、新生アップルを印象付けました。

1999年以降、レインボーカラーは使われなくなり、単色のロゴが使用されています。

スティーブ・ウォズニアックの結婚

ウォズニアック氏の初めの結婚は1980年、アリス・ロバートソンという女性でした。

しかし、うまくいかずにすぐに離婚してしまいます。

1987年にキャンディス・クラークという女性と再婚し、この時に3人の子供に恵まれます。

しかし、ここでも離婚してしまいます。

そして、スザンヌ・マルカーンという女性と1990年に再婚しました。

その時スザンヌさんも3人の子供がおり、現在は6人の父親になりましたが、ここでも離婚してしまいます。

現在の奥様であるジャネット・ヒルという女性と2008年に結婚し、幸せに暮らしているようです。

スティーブ・ウォズニアックの人柄

ウォズニアック氏は、幼少期は引っ込み思案な性格でしたが、現在は陽気でよく喋る性格のようです。ただ、話の内容はほとんどがコンピュータのことで典型的な技術オタクのようです。

多くのコンピュータ関係者に人柄を慕われ、親しみをこめて、「ウォズ」という愛称で呼ばれているようです。

ユーモアのセンスは素晴らしく、テレビドラマに本人役で出演したり、日本のCMにも出演したりしています。

バークレー・ブルーのように、いたずら好きな性格ですが全く悪意はなく、人を笑わせることが好きなだけのようです。

Apple社の現在

新型コロナウィルスが世界中で猛威を振るう中、2020年4月10日にグーグルとアップルが共同プロジェクトの立ち上げを発表しました。

Bluetoothをつかって濃厚接触を追跡するアプリの実装に役立つフレームワークを開発するというものでiOSとAndroidの両方で動作するということです。

5月中旬のリリースを目指して開発が進められており、公衆衛生機関が開発しているアプリと接続可能なAPIを公開するということです。

公衆衛生機関のアプリは新しいAPIを通じてユーザーのスマートフォンが発するBluetoothの電波を利用できます。通信可能距離が約10mというBluetoothの特性を利用し、濃厚接触した相手の記録を保存しておき、その相手の感染が判明した際にわかるようにする仕組みです。

感染者と濃厚接触していたとの警告が届いた段階で、ユーザーは自己隔離をしたり、検査を受けたり、何らかの対応策がとれるということです。

これが実現すれば、早期の対応、感染経路の特定など活躍が期待されます。

スティーブ・ウォズニアックからのアドバイス

ウォズニアック氏はこう語ります。

「若い人にアドバイスしたいのは自分の好きな道に進んでほしいということです。特に学生はルールにばかり従わずクリエイティブになってください。それはきっと世界を変革する種になります。そしてその為に大切なのは正直であることです。起業する人にアドバイスするとすれば…ビジネスセンスは大事ですね。必ず数字を見てください。どんなものが使いやすくどんなものが使いにくいか…。自分自身が使いたいものを作ってください。私にとってコンピュータがまさにそれです。ジョブズもそう。彼はシンプルなものをつくったのは、自分のライフスタイルに必要だったからです。これがベストマーケティングです。あとは、優秀なエンジニアをチームに入れてください。学者ではなくモノをつくれる人、つくることが好きでたまらない人です。そういう人が既存の常識を排除してくれます。」

スティーブ・ウォズニアックの名言

”My goal wasn't to make a ton of money. It was to build good computers.”

「僕の目標は、たくさんお金を稼ぐことじゃない。いいコンピュータを作ることだ。」

”Every dream I've ever had in life has come true ten times over.”

「僕がこれまでに経験したすべての夢は10回以上実現した。」

影の立役者 スティーブ・ウォズニアック

アップルはスティーブン・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックで創ったといのはよく知られた話ですが、強烈な個性を放ちCEOとして常に脚光を浴び続けたジョブズ氏に比べ、ウォズニアック氏は温厚で人前に出ることは多くありませんでした。

しかし、ウォズニアック氏はウォズの魔法使いと称えられた天才エンジニアでした。

ジョブズ氏は稀代のカリスマであり、セールスマンであり、イノベーターでした。世に新しいニーズを創出するジョブズ氏がいたからこそ、ウォズニアック氏は世界最高のエンジニアになれました。一方でコンピュータの革命家のウォズニアック氏がいたからこそジョブズ氏は世界一の経営者になれました。

自分のしたいことをただ楽しみながら追及していき、20世紀最大の発明を世の中に送り出してしてくれたウォズニアック氏にはただただ尊敬しかありません。

出版社 ダイヤモンド社 著者 スティーブ・ウォズニアック
この記事を書いた人
ルブさん

就活失敗からの2回転職を経て、現在は都内でタウンワークとかindeedを売ってる人です。
中小零細から大企業まで就業経験あり。
普段はプライムビデオ見たりコストコ行ったりして過ごしてます。

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