オラクル共同創業者のラリー・エリソンとは?経歴と名言まとめ【起業家】

ラリー・エリソン 起業家
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ラリー・エリソン氏とは

名前:ローレンス・ジョセフ・エリソン

誕生日:1944年8月17日

国籍:アメリカ合衆国

生い立ち

エリソン氏はニューヨーク出身で、母はアシュケナジム・ユダヤ人のフローレンス・スペルマン氏で、エリソン氏を出産した時未婚の母でした。

生後9カ月の時にシカゴに住む叔母リリアン・エリソン氏と義理の叔父ルイス・エリソン氏に養子として引き取られ育ててもらいます

エリソン氏は実母の名前を知らず育ちましたが、48歳の時に初めて対面しました。

実の父親は知らないままのようです。

育ての母は愛情深い人でしたが、父はとても厳しい人で衝突が多かったと語っています。

高校時代は数学と科学を中心にとても秀才で、学生時代エリソン氏は家族や教師、恋人からも医者になれと言われていたそうです。

当時医師は「職業の最高峰」とみなされており、エリソン氏の育ったシカゴの下位中間層では特にその傾向が強かったと言われています。

しかし医学部進学課程で困難な数年間を過ごしたエリソン氏は21歳のときに、医療分野には向いていないとはっきり気が付いたそうです。

イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に2年まで通い、科学部門において年間最優秀生徒となり表彰までされましたが、育ての母リリアン氏が死後まもなく21歳の時に退学しました。

育ての母の死はエリソン氏にとって、とても辛く精神的にも不安定な日々を送っていたようです。

シカゴ大学で学ぶために実家に戻りましが、結局3カ月で退学しカリフォルニア州バークレーへ移住しています。

シカゴ大学在学中にプログラミングのアルバイトをしており、短期間で高収入を得られる事を知り、中退後もプログラミングを継続していました。

2度も大学を辞めカリフォルニア州へ行くと決めたエリソン氏に家族はとても怒っていたそうです。

バークレーへ移動中にシエラ・ネバダ山脈に出会い、「ヨセミテ渓谷の、言葉では言い尽くせないほどの美しさにまいってしまった」と魅力に心を奪われたと語っています。

自然保護団体シラ・クラブへ入会し環境保護主義者になり、春と夏のほとんどをリバー・ガイドやロッククライミングのインストラクターとして働いていました。

週に何度かは生活費を稼ぐためにバークレーへ帰りコンピュータ・プログラマーとして働いていました。

プログラマーの仕事は好きではないが、面白いしプログラミングが得意だったと語っています。

経歴

1970年代 アンペックス勤務

1977年 Software Development Laboratories創立(後のOracle社)

1997年 Apple社 取締役就任

2002年 Apple社 取締役辞任

2013年 アイランドエアー 買収

Oracle設立

20代だったエリソン氏はサンノゼ北部の一角、後のシリコンバレーに企業が集中しており非常に興味深くやりがいのあるプログラマーの仕事があることを知りました。

当時勤めていた会社には満足していたのですが、もっと夢中になれるソフトウェア・エンジニアリングの仕事がしたいと思うようになり、そのような会社がないのならば、自分で作ってしまおうと思い起業したのです。

優秀なプログラマーを集めて世間では常識外れで絶対に不可能だと言われた実用に耐えうるような高速性をそなえたリレーショナル・データベース・システムの構築に取り組み、みんなで夢中になって働き完成させました。

設立当初はSoftwareという名称でしたが2年後にRelational Software Inc.に改称し、さらにOracle Databaseを出荷後に現在の社名Oracleへ改称しています。

Oracleが初めて受けた仕事はCIAからのデーターベース案件でした。

その案件のコードネームが後の社名になるOracleだったようです。

CIA等の公的機関や民間企業向けのビジネス展開で業務拡大をしました。

さらに9.11の後、Oracleの売上さらに伸び公的機関からの収入を伸ばしています。

現在のOracle

本社はサンフランシスコ半島のレッドウッドシティ地区にあり、サンカルロス空港に近いところにあります。

歴史に残るテクノロジー製品を生み出したOracleは世界有数のテクノロジー企業へと成長し、世界145カ国に約15万人の従業員を抱え、42万を超えるビジネス顧客に向け類をみない様々なソフトウェアやサービスを生み出しています。

1986年に上場しその後ソフトウェア会社ではマイクロソフト社についで第2位の規模を誇り、様々な企業を買収し大きな成長を遂げています。

OracleはAppleの製品のように一般の方向け製品ではなく、法人向けのデーターベース管理システムなどを開発している会社なので、一般の方はなじみのない会社かもしれません。

Oracleは高機能ですが、その反面システムや操作方法を理解するのがとても難しく、ユーザビリティも低いため開発・運用がとても難しいとも言われています。

また、大規模のシステムを構築するには絶対に必要なOracle Database Enterprise Editionの価格は1CPU当たり570万とかなり高額で、各オプション機能も高額なため他社製品よりもかなりの差があります。

そのため高飛車であると中小企業での導入率が非常に低いということです。

一時期は高くて難しいというイメージを払拭するため、奮闘していましたが、いまだ利用する企業は少ないようです。

オラクルマスターというOracle Database技術者の認定資格があり、Oracle社が主催するオラクル認定試験により取得することができます。

ラリー・エリソン氏アップル時代

ハードウェアだけでもソフトウェアだけでもいけない。

それを体現しているのがAppleだと語っています。

ハードウェアとソフトウェア、そしてサービスをシームレスにつなげたユーザー体験を提供することが、Appleが成功している秘訣だと説いています。

ジョブズ氏と一緒に散歩している時に、ジョブズ氏が放つアイディアは非常にシンプルだったと語っています。

かつてPCの世界を広げるべくMicrosoftやIntel、HPなどが立ち上がりましたが、それぞれの足並みは複雑でバラバラでした。

それなら一つにしてやってしまおうというのがジョブズ氏のアイディアでジョブズ氏がCEOに戻った当時、時価総額は50億ドルほどでしたが、その100倍になり世界で最も価値のある会社に成長させました。

そんなジョブズ氏を間近で見ていたエリソン氏は全てのパーツを1つにすることが重要だと語っています。

しかし2002年に取締役会に出席する時間がとれないことを理由に辞任しています。

ラリー・エリソン氏結婚

エリソン氏は、4度結婚しすべて離婚しています。

1967-1974 アッダ・クイン氏

1977-1978 ナンシー・ウェーラー氏

1983-1986 バーバラ・ボーザ氏

2003-2010 メレニー・クラフト氏(小説家)

3人目の妻バーバラ・ボーザ氏との間に息子デビット・エリソン氏と娘ミーガン・エリソン氏を授かっています。

ヨットにかなりのめりこみ、それが離婚の一因になったこともあったとも言われています。

現在はニキータ・カーン氏でモデル兼建築デザイナーという才色兼備な方だそうです。

エリソン氏のヨットへの情熱

エリソン氏がヨットに出会ったのが、カリフォルニア大学でセーリングクラスを受講したのが始まりでした。

すっかりセーリングの魅力に取りつかれたエリソン氏は25歳の時、34フィートのレーシングスループ艇を購入します。

誰にも邪魔されず、ただ風のまま旅をする。というところが魅力だとエリソン氏は語っています。

その後Oracleの前身である、Software Development Laboratoriesを設立すると、忙しくなってしまい最初のヨットは手放すことになってしまいますが、エリソン氏のセーリングにかける熱意が失われることはありませんでした。

1990年代に入りエリソン氏は78フィートのヨットを購入し、ヨットの名前を「サヨナラ号」と名付け、高いレベルでのレース活動を開始します。

ビジネスとおなじように、ここでもエリソン氏は素晴らしいリーダーシップとセーリングスキルをみせ、マキシクラスの世界チャンピオンに5度も輝きます

しかし、厳しい事態にも遭遇してしまいます。

1998年オーストラリアで開催されたシドニー・ホバートレースにエリソン氏自らスキッパーとして参加した時のことでした。

シドニーをスタートし、タスマニアのホバートまでの約1,200キロを帆走するこのレースは元々荒れることで有名でしたが、この年は特に爆弾低気圧の直撃を受け最大風速は70ノットにも達し、参加114艇中、5艇が船体放棄、66艇がリタイアする事態になりました。

わずか44艇が完走する一方で、55名がヘリで救助され、死者行方不明6名出す最悪のレースとなりました。

このレースでエリソン氏のサヨナラ号は優勝を飾りますが、エリソン氏は「レースに勝ったのではなく、ただ最初の生存者になったに過ぎない」と後に語っています。

さらに「とにかくすべてが普通じゃなかった。風の音はそれまで聞いたことがないほど、ものすごく甲高いものだった。空も異常なら波も異常。何もかも異常だった。」とも語っています。

爆弾低気圧の直撃を乗り切り、1998年のシドニー・ホバートレースを制したエリソン氏でしたが、九死に一生を得るような経験にも関わらず、セーリングへの情熱は変わることがありませんでした。

エリソン氏がアメリカズカップに挑戦することになったきっかけについては、1995年サンディエゴで開催された第29回アメリカズカップで、ラッセル・クーツ氏率いるチーム・ニュージーランドはデニス・コナー氏を破り初めてカップをニュージーランドにもたらしました。

国民的英雄となったクーツ氏は2000年第30回大会でも圧倒的強さを見せカップを防衛しますが、その直後チーム主要メンバーと共にスイスの大富豪エルネスト・ベルタレリ氏率いるアリンギへ電撃移籍をしてしまいます。

この衝撃的ニュースを聞いたエリソン氏はそれなら俺もと自らシンジゲートを立ち上げました。

BMWとジョイントし、BMWオラクルレーシングを設立したエリソン氏でしたが、2003年の第31回大会とも挑戦者決定戦で敗退してしまいます。

一方、アリンギに移籍したクーツ氏は2003年の第31回大会でも圧倒的な強さを見せ、母国ニュージーランドからカップを奪い去ります。

しかし、その後の運営方針を巡りオーナーのベルタレリ氏と対立し、結局アリンギを去ってしまいます。

そして、第32回大会終了と同時にOracleへ移籍、エリソン氏とクーツ氏の最強タッグが誕生しました。

その後ルールを巡るアリンギとの法廷闘争、そしてモンスターヨット同士の対決となった第33回大会については、それまでのヨットというものの概念を完全に覆す怪鳥<USA17>をクーツ氏と共に作り上げたエリソン氏は、アリンギとの一騎打ちを制し、ついにカップを手に入れました。

エリソン氏にとってもこの第33回大会と<USA17>は特別な存在であるようで、現在もOracle本社前に飾られ、また「オラクル・オープンワールド」のコンベンション会場へ引っ張り出されるなどしています。

ラリー・エリソン氏の名言

"Being first is more important to me[than earning money].I have so much money.Whatever money is,it’s just a method of keeping score now.I mean,I certainly don’t need more money.”

「お金を稼ぐよりも、一番になることは何よりも大切だ。確かに、私は大金を手にしているが。お金が何であろうとも、それは単なる今スコアを維持するだけの方法に過ぎないのだ。何が言いたいかというと、確かにより多くのお金なんて必要ないのだ。」

"if you do everything that everyone else dose in business,you’re going to lose.The only way to really be ahead,is to ‘be different’.

「もし、ビジネスにおいて他の人と同じことをしているのであれば、負けてしまいます。本当に前へ進む唯一の道は「違った」ことをすることです。」

"You have to believe in what you do in order to get what you want.”

「欲しいものを得るためにすることを、常に信じ続けなければならない。」

”I have had all the disadvantages required for success.”

「私には成功の条件として、あらゆる不利があってこそである。」

ラリー・エリソン氏は親日家

エリソン氏は親日家とも知られています。

エリソン氏は日本でも京都がとても好きで、現在京都に8,600万ドルの別荘を所有しています。

その別荘には500点近い日本の芸術作品が置かれており、忍者屋敷のようでいずれ美術館のようになる予定だと語っています。

家好きのエリソン氏のカリフォルニアにある大豪邸にも素晴らしい豪華な日本庭園を備えています。

外らかは瓦のような屋根や縁側が見え、外見は日本の伝統的な家屋そのもので、人造湖には松や灯篭が設置され日本よりも日本らしいデザインの家になっています。

カリフォルニアの自宅にも日本画がコレクションされており、飾る絵は2週間に一度変えるそうです。

侍をモチーフとした装飾品も「サムライアート」と気に入って集めています。

熱中していたヨットの名前をサヨナラ号とつけたり、スティーブン・ジョブズ氏が寿司好きだったのは、盟友だったエリソン氏の影響も大きかったといいます。

順風満帆とは言えない人生の中で常識を疑い、情熱を持てるものに全力を注ぐその姿に刺激を受ける人も多いのではないでしょうか。

今後の活躍や恋愛も気になるところです。

出版社 技術評論社 著者 鈴木 健吾, 玉置 雄大, 塩原 浩太, 小林 修, 大森 慎司, 内村 友亮
この記事を書いた人
ルブさん

就活失敗からの2回転職を経て、現在は都内でタウンワークとかindeedを売ってる人です。
中小零細から大企業まで就業経験あり。
普段はプライムビデオ見たりコストコ行ったりして過ごしてます。

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